昭和44年06月24日 朝の御理解
御理解 第61節
「神より金光大神に、いつまでも尽きぬおかげを話にしておくのぞ。信心しておかげを受けたら、神心となりて人に丁寧に話をしてゆくのが、真の道をふんでゆくのぞ。金光大神が教えたことを違わぬように人に伝えて真の信心をさせるのが、神へのお礼ぞ。これが神になるのぞ。神になりても、神より上になるとは思うな。」
御理解 第62節
「昔から、人もよかれわれもよかれ、人よりわれがなおよかれというておるが、神信心をしても、わが身の上のおかげを受けて、後に人を助けてやれ。神信心も手習いも同じこと、一段一段進んでゆくのじゃ。にわかに先生にはなれぬぞ。」
こう頂いておりますと、なかなか信心もどこが本当の事やら、実は分からないような錯覚が起こる感じが致しますね。なかなかそれが神になるのぞとこう仰る、もちろんそこを目指しての信心をお互いがさして頂いておる。それには人に丁寧に話をしていくのが、真の道を踏んで行くのぞと、金光大神が教えた事を違わぬように人に伝えて、真の信心をさせるのが神への御礼ぞと。どうでも私共が真の道におり、真の道を踏んで先ず私共がいっていないといけんのですけれど。
金光大神が教えた事を違わぬように伝えるということがですね、真の信心をさせるのが神への御礼とこう仰るが、なかなか金光大神の教えられた事を、違わぬように人に伝えて行くと言った様な事は、もうそれこそ容易な事じゃないんですね。もう深く考えれば考えるほど難しい。また六十二節には、わが身の上におかげを受けて、後に人を助けてやれとこう仰る。神信心も手習いも同じ事、一段一段進んでゆくのじゃと仰るのですから、一段一段本当な事を分かっていく。
一段一段本当な事を進めていくと、いうことにまぁなる訳ですがね。この一段一段進めていったらどういうことになるだろうかと、私は思うのですけれどもね。信心しておかげを受けてまぁ形の上のおかげを受けて、おかげを受けていけば受けていくほど信心が有り難うなり、いわゆる神心も出来て、人にそれを伝えていかなければおられない、という真の道をふんでいく事が出来るわけなんです。ところがそのうおかげを受ければ受けるほど、忙しゅうなれば忙しゅうなるほど反対にですね。
神様から離れていきよるのじゃなかろうかと言う様な、おかげの受け方をする人達がたくさんあるんです。いわゆるおかげを受けて忙しゅうなれば忙しゅうなるほど、人へ伝えていくというか人が助かるというか、人が助かる事のためにもうその事に専念する、その事にいわば生き甲斐を、感じさせて頂ける程のおかげを受けていく人もある。ですからまぁそれが本当だとまぁ大体私は思うのです。信心が分かれば分かった事をねぇ、本当な事が分かったら分かっただけを人に伝えていく。
ところが分かったようであって、またおかげを受けてそのおかげを受けた事を人へ伝えていくとか、61節と62節を混同して話しておりますが、人を助けてやれと仰る様な働きということには全然なってゆかない。只おかげ頂いたおかげ頂いたと言うのは、只忙しいのに追いまくられておるというだけ。かというと忙しくなればなるほど、大きくなればなるほどおかげを受ければ受けるほど、その受けたおかげを人助けのために、また真の信心をさせることのために。
生き甲斐を感じて行くと言った様な、そういう生き方がです、私は間違いがないとこう思うんですけれども。しかしいろいろ考えておるとどっちが本当やら分からなくなってくる。これは私はにょうほうしと言った様に、まぁ例えて申しますなら、甘木の平田さん当りの様に、あぁいう忙しい忙しかろうと思うんです。あれだけ沢山の大きな事業、商売仕仕事なさっておられるのですから。けれどもおかげを受けていけばいくほど、そのういわば人へ伝えていくというか、真の信心をさせる事のために。
神へのそれをお礼として一生懸命その事に生き甲斐を感じておられるように、まぁ見受けられる。こういう方はまぁ非常に少ない。おかげを受けて忙しくなれば忙しくなるほど、あんなに一生懸命お参りが出来ておったのに、お参りも出来なくなる。なら忙しさに追いまくられて信心の方には、いわば人が助かるとかそれを神へのお礼として、真の道を人に伝えていくと言った様な事は出来ない、出来なくなる。けれどもここにはそのおかげを受けて、後に助けてやれと仰るんですからね、六十二節に。
ですからやっぱり忙しさに追いまくられて大きなおかげを頂いて、そこんところを頂いたら人助けもさせて貰おう、人にも話させて貰おうと言う様なその考え方でも、嘘じゃないと言う風に思うのですよ。先ず我が身の上におかげを受けて。これは善導寺の総代さんに草野から上野さんという、もう実意丁寧な御信心をなさる方でしたが、熱心にお参りなさっておられました。その方が六十位の時じゃなかったでしょうか、私がもう六十五になったら後はもう子供に任せてから。
もう神様の御用一本にひとつおかげ頂きたいと思う。もう今の所はどうしても忙しゅうして手が外せない。総代としての御用も本当にもうろくろくろくそに出来ん。相済まんけれども六十五才になったらもうそれを境にですね、ひとつ御道の御用にも教会の御用にも立たせてもろらウ。又それは本当に嘘ではない。そういう実感をもってそう言う風に話しておられましたけれども、その六〇才か六十五才の間に亡くなられましたんです。あっという間でしたそれはもう。
まぁなんか金毘羅山参りかなんか、そのういうなら門内からなさってですね、あちらの温泉で亡くなられた。本当に神様はあんまりだなぁと思う様にあるんです。あれほど六十五才になったら、それから先は神様への御礼として、本気で御用させてもらおうとこう言うておられる人なら、なぜ七十迄もまたその上も長生きのおかげを頂かせて、御用にお使いなさらなかったのであろうかと、と思うんですね。ですから我が身の上におかげを受けて、後に人を助けてやれということを、言うておられますけれども。
そういわばご自分でもしようと覚悟しておられたんだと、私は上野さんは思うんですけどねぇ。そんならこれはまた平田さん当りの例を申しますと、そんなら甘木の先生についてあぁした厳しい修行をされて、そんなら現在の甘木の平田さんが、昔からあぁだった訳じゃない。それこそ一週間も寝られんごと心配があった。もう借金は山のように出来る。もうこの五尺の体がおり場がないと、言われる様な時代も随分長かった。そういう頃からやっぱり一生懸命、こと道の御用のためになら。
こと甘木の親先生がお喜び頂く事のためなら、それこそ命懸けというても過言じゃなかろうという程に、道の御用に立っておいでられた。おかげを受けられたからあぁした御用が出来られておる事じゃないと言う事が分かる。そこで私はそのう思うんですけれども、大体どう言う所に焦点を置いたら本当な事になるのだろうか。これは私の建前私の生き方から言うと、やはり甘木の平田さ当りの様な生き方が、段々神様の御用神様の御役に立たせて頂きながら、おかげの方はいつの間にか大きくなっておられると。
忙しいというたら限りがない事じゃろうけれども、忙しい事なんかそれはまぁもうほうたらかしにしてあるように見える。そこんところをご自分でも「真、公、私」と言った様な事を編み出しておられる。信心を一番公の事を二番私的な事はもう一番最後と言う風にな、平田さんの半生というのはそれで貫かれたんだと私は思うのです。だから私はそれがやっぱり本当だとこう思うんです。
けれどもその六十二節には、神信心しても我が身の上におかげを受けて、後に人を助けてやれと。神信心も手習いも同じ事、一段一段進んでいくのじゃと、にわかに先生にはなれぬぞと言う所もある。いかにも私が上野さんの例をとって、そういう生き方はおかげ受けられん、おかげを落とすと言う風に申しましたけれども、どこんにきを頂き違うとりゃそんな事になっていくのであろうかと。なったんだろうかと。おかげを頂けば頂く程、神様から離れていくという人もありますけれども。
おかげを頂けば頂くほど、体のとか神様の御用には立てなくても、そう言う様に自分が本当におかげを受け、本当におかげを受けたら、例えば平田さん当りの様なお役にでも立ちたいと、いう真心を燃やしていけばそれでよかろうとこう思うんです。けれども結果においては、やはり本当な事にはなっていない。そこに私はその人間のまぁ凄まじい迄の欲とでも申しましょうかねぇ。人間の心の中に今言う一般に申しますように、出来れば出来たで欲というものは限りがない。
一億円貯めたらもう後は神様のお役に立つぞと、言うても一億円出来ると二億円三億円と、これは金銭の事だけですけれども、そう言う様な心が出来てくる。だから神様としては例にとっては相済みませんが、例えば確かに上野さんは六十五になったら後は神様のご用に立たせ貰うと言れておる事は事実である。それは本当である実感なんです。けれども神様の目から御覧になったら、これはあげん言いよるけれども、本当な事を言いよるけれども、六十五になったら今度は七十迄と言うに違いない事を見通されたから。
いつ迄これは生かせとったっちゃ同じ事、と言った様な結果になったんではなかろうかと言う風に思う。人間のいわば凄まじいその欲というものを、神様がもう見通しておられる。そこで私共がです、例えばおかげをそのう受けた後に人を助けてやると、言う様な働きと言う様なものがです、じぶんなそこ間違いないと言うことをです、そういう生き方で間違いがないと言うことをです、自分の心の中に確信ずけていかなければならない。いよいよ間違いないものにしていかねばいかん。
例えば一億円貯まったら、もう後はいうなら私はね例えですからね、神様の御用に専念させてもらうと思うておる事を、神様がそのまま受けて下さるおかげを受ければ、私はそれで良いということになると思うのです。私はここのところにまぁひとつのちょっとしたそのジレンマを感じるんですけれども。私は平田さんのような生き方、私自身もやっぱりそうであったしね、おかげを受けたから人助けに乗り出した、と言った様な事じゃない。まぁ何回でもまぁ大変な言い方ですけどもですね。
やっぱり難儀なまぁいうならいわば難儀の、最高の難儀をさして頂いておると言う、自分にもやっぱりとてもこげな有り難い信心を、人が分かってゆかれるということが、したら有り難い事になるだろうかと思う。それがここで言うそのう受けたら神心になりてと仰るが。やっぱあれが神心じゃったじゃろと。自分は食べる物に事欠いておるようであっても、難儀をしておっても、人が助かるということのために、まぁそれに熱情を傾けられたということなんですね。
そして現在のおかげを頂いておるのですから、やはり一歩一歩いうならば神になるための信心が出来ておったとこう感じられる。ところがそのあまりにも多い信心というのは、なるほど金光様の信心頂いて、段々繁盛のおかげを頂いて、まぁいうならゆるぎのない、例えば基礎が出来るほどしに、商売なら商売のおかげを頂いていけばいくほど、今度は信心そのう神様へのそのう御用は疎かになって遠くなる。これはもういよいよいけませんけれど、例えば上野さんのような生き方でです。
自分がどこまでおかげ頂いたら、ここまでおかげ受けたら、もう子供が後の事はやってくれるというところまで行ったら、お役に立とうという生き方。いわゆる自分がおかげを受けて後に人を助けてやれれるようになったら、助けさしてもらうそういう御用にでも立たして頂こうということでも、そうあれとここに書いちゃる六十二節に書いてある。そう言う風に教えておられる。我が身の上におかげを受けて、後に人を助けてやれと。神信心も手習いも同じこと、一段一段進んでいくのじゃと仰る。
ここのところです。一段一段進んでいくということはどういうことかと。なるほど自分は直接お役には立ちよらん。手助けの直接の御用はしよらん。けれどもその手習いの方が一段一段進んでいきよるかどうかと、こうが進んでいきよればです、私は神様は命を召し上げられる様な事はない。いやむしろです長生きのおかげを下さるだろう。そして御用にお使いなさるであろう。まぁ一億円の財産がここに出来たら、後はもう神様の御用に専念させてもらうと言うておる事が事実だと。
本当だと神様が受けられたら、例えば十年かからなければ一億円貯まらんところは、五年でも三年でも、ひとつおかげを頂かせて、早う御用に使おうと思ぼしめさればです、おかげを早う下さろうと言う風に思うのです。ところが人間のそれこそすさまじいまでの欲というものがあるのですから、その欲というものがそういう時に出て来たんではいけないから、もうあれが六十五から先はお役に立つと言いよるばってん、また六十五になったら神様に七十になったらお役に立ちますと。
そんな事言ういうことになればですね、とうとうお役にも立たずじまいに、いわばそのう六十五どころか、半ばでそのう折れてしまわなければならないということでは、いよいよつまらん事になるんですから。問題は一段一段進んで行っておるという内容というか、信心とはどう言う様な事だろうかと。私はそう言う風に思うて、どれがほんなこつやら分からん。私しゃそう思うとるけれども、これがほんなこつとばっかりとは思われない。平田さんの生き方私共の生き方が本当だとばかりは思われない。
ところがですこの六十二節にある、後に人を助けてやるという生き方は、往々にしてもう殆どまぁ言うならば、おかげを受けていないという事実があるところをみるとです、まぁだ本当なもんじゃなかったということになる。貯まりゃ貯まったでまた一段と貯めたい。出来りゃあ出来たでまた一段と出来たり、美しゅうなしたりして、そして後にということになる。そういう根性というか、そういうまぁ言うなら欲望と言った様なものがですね、いよいよそのうなくなっていっておる。
と言う様なおかげを頂かなければ、この六十二節の方は難しいなぁと思うんです。人より我はなおよかれと言う様に、そのもう自分がようなったら、人がようなる事のために、奉仕しようとか、と言う様な考え方は、悪い事ではないけれども、そこに何か大きなひとつの、落とし穴があるように思う。ところがそういう信心が多いということ。そこでね私が例えばでよ、どちらの方を取らせて頂くに致しましてもです、ただ御用すれば助かるという理ですね。
そう天てん理ですねそういう理をっひとつ体得して、お役に立っておるということ、いうなら人助けのために御用に立っておってもです、それだけでは私は、神になるのぞと仰る様なおかげにはならんのじゃなかろうかとこう思う。そんなら実際に人を助けてやる事は出来なくても、自分がおかげを受けて、一生懸命仕事に追いまくられておってもです、内容が一段一段進んでいっておったら、私はそれの方がおかげになると思う。そこで私は自分達のその事を私は、とにかくどっちが本当やら分からん。
どういうことになるか分からんと、こう思わせて頂いとりましたら、あのう玉葱の皮をずぅとこう一枚一枚剥いどるところを頂いた。それでそれはまぁどちらでも良いけれどもです、例えばですまぁこりゃですそんな事はないでしょうけれども、平田さん当たりの場合はですよねぇ、そんなこたぁなさらんと思いますれども、本当に神への御礼であり、神になるのぞと言う神になるそのう、なっておいでられておると私は思うですけれどもです。もしそんならあぁいうなら御用に打ち込んで専念しておられるのが。
ただ天理を悟っただけでです、御用すりゃ助かるということだけの、見てみなさい私がこげん御用しよりゃ、こんな風にどんどん商売の方は繁盛しょると。いわゆる信、公、私、でいきしゃすりゃ間違いないということがです、天理を悟ったということだけで、それがなされておるとすると、これはまぁいよいよ結論と言うか、そのう結果的にです、いわばあの世にも持っていけると言った様なものを、頂かれんなりにあの世に行ってしまうと言う様な事になるかも知れんということを思うのです。
それは例えば他の例で申しましても、大きな教会なんかで、確かに御用すりゃ助かると言う様な、おかげを頂かれた人達がですね、その後に非常に寂しい結果になっておるという事実を、私は沢山知っております。その人一代の時はまぁよかったけれど、子供になったら孫になったら、信心が影も無くなっておるという事実もある。いやぁもうその人の晩年に既にそういう人も、私は幾らも知っておる。中々お役に立っていわゆる信、公、私、という生き方をですね。いわゆる御用すりゃ助かると言った様な生き方です。
だから自分自身が真の道を踏んでゆかずに、ただ御用というかねいかに人の助かる事のために奉仕してもですね、これは神になるのぞと言った事になってこない。そんならそういう御用はしなくても、おかげを受けてですね、後に人を助けてやれという生き方でもです、まぁだこういう人は私はまぁだ知りません実際には。おかげを受けて後に人を助けてやって、お徳を受けておられるという人達が、まぁ知りませんけれどもね実際、例を上げることすらも出来ませんが。
けれども教祖はこう仰っておられるから、やっぱしある事はある。それはそんならどちらでも良いから、自分自身というものがです、おかげを頂けば頂くほどです、一枚一枚それこそ玉葱の皮を剥ぐように自分というものがですね。玉葱という奴は臭い奴ですけれどね、臭いもんですけどその自分の臭いものとでも言おうか、自分のまぁ我情と言うてもよかろう、我欲と言うても良かろうそういうものがです、おかげを頂けば頂いて行く程、こちらの方がこもうなっていきよる。こうやっておかげは頂いていきよる。
けれどもなら例えば一億円貯まったら、後はとこう言う風な考え方もです、一億円例えばそこに貯まってもですね、これを神様もう決して私のものとか、私の財産等とは夢思いませんと言った様なものが、本当に出来ていきよる。いわゆる自分というものが一枚一枚剥がれて、自分というものがいよいよ小さくなって、おかげを受ければ受ける程、それに反比例してです自分というものは小さくなってゆく、いわゆる自分の我というものは取れてゆく、自分というものが空しゅうなていく。
そういう私はおかげを頂いておるとするなら、私はこの六十二節の生き方でいいと思うんです。いやむしろそれの方が素晴らしいと思うんです。おかげを受けてそして後に人を助けてやれるということがですね、そこにひとつのこういう手本を示してゆかれる。けれどもその生き方はね、もう私が知らないほどしにです、そういう生き方は必ずおかげを落としておる。実にだからこの辺のところは難しい。おかげを受けて自分というものが段々空しゅうなっていきよるかどうか。
自分がいよいよ日々の改まりが第一、として心掛けさせてもろうて、自分というものが改まりに改まって、段々自分というものが影を細めていきよるかどうか。どれだけの財産が出来ても出来ても、大きく頂ければ頂いたほどです、自分の物とは夢々思いませんと言った様な信心が出来ていっておればです、私は手習いも同じ事、一段一段進んでいくのも同じことというのは、自分の信心が一段一段進んでいっておる。いわゆる自分という者が脱皮されていきよる。
一つひとつ剥がれて行きよるというところにです、私はいわゆる答えの焦点というものがね置かれておるなら、その人は間違いない生き方をしておるんだということになります。ここでもそれを言う人がおります。今の調子でいくと本当に、甘木の平田さん当りの様に大きくなれると思うと。そしてそういうおかげを頂いたら、平田さん当たりの様に、あぁいうお役にでも立ちたいということを、念願しとりますという人が有りますんです。ですからその人の心の内容というものがです。
一段一段進んでおればそれで絶対間違いない事。それで良いのだと。自分という者がいよいよ空しゅうなって、その人がいきよんなさるとするなら。けれどもですねここまでおかげ頂きたいけれども、そん時にはまぁだ自分のいわゆる我欲が出て、六十五まで生きて六十五から先やぁもう神様に御用するとね、言うておる内に六十五までいかんなりに、亡くなってしまわなきゃならんと言った様な、結果にならんで済むおかげを、頂くためにもです一段一段進んでいっておる信心。
一段一段進んでいっておるということは。いろんな事が詳しゅうなったと言った様な、教えをまぁ言うならば、深く広く分からせて頂いたというだけではなくてです。自分というものがいよいよ無くなっていきよるかということ、一段一段進んでいきよるということは、そういう生き方でいってです、自分が助かり自分がおかげを受けて、そして人を助けてやると言うなら、これが本当にいうならば、理想の天地の親神様の願いというのは、そういうことじゃなかろうかと思う。
ですからまぁいうならばですね、人間は様々な弱点を持っておりますから、その自にゃない様に思うておっても、その弱点というものを計算の中に入れてです、自分は実際今こう思うているけれども、いつ自分がどう言う風に変わるやら分からんから、もうやはりおかげもかつがつ信心もかつがつ、お役に立たせて頂くということもかつがつ、と言う様にです、やっていったら一番堅実です。堅実なように私は思いますね。平田さん当たりもそんなことは、抜け目があんなさる筈はないけれども。
例えば平田さんのような生き方と同時にです、平田さん自信が段々小さくなって、無くなってね、御用すりゃあ助かるだけではなくて、いうなら天理だけを体得したらええだけじゃなくて、地の理も覚えてその一切の事を黙って受けて、黙って与えられるほどしの信心。段々思えば思うほど有り難うて有り難うてと言うようにです、いかに有り難いこういうおかげを頂いて、勿体無いと言う様な心がです、育っていっておらなければ、私は神になるのぞと言った様な事にはならん。
いかにも神になっておるようであってです、いかにもお役に立って御用にも立ってです、なるほど天の天理の道理というものがでう、いよいよ大きくなる一途を辿っておる、自分は真、公、私の生き方でいっておる。けれどもそのう大地の徳と言った様なもの、そういう信心、自分が無くなっていっておると言った様な喜びと、言った様なものが無いとするとです、いわゆる六十一節にある、神より上になるとは思うなと、戒められておるがです、神より上になってしもうておる。
神の上にあぐらをかいておるような生き方ですらなりかねない。私が助けた俺が話して俺が分から話したから。分かったんだと言った様なですね、ことの側も正しく神より上になった姿なのです。平田さん当たりではそういうことはないと思うのですよ。けれどもああいう例えば御用、だからこの六十一節と、六十二節のとこにそうそのうまぁ矛盾というかねぇ、そのう私がまぁ錯覚する程にです、いわばどっちが本当か分からないと言った様なジレンマすら起こる、ような今日は感じですけれどね。
だからどっちがどっちでもまぁいいにしましても、結局は自分の心が神になるのぞという状態ですね。神様の手にも足にもなってお役に立つという、在り方と同時にです自分の心もです、これが神心というのはこれじゃろうかと、自分でも思われるようなです、在り方になっていかなければならないということ。そこに神信心も手習いも同じ事。一段一段進んで行くということは、一段一段自分の心がです無くなっていく、空しゅうなっていく、そういう生き方ならば、例えばね例えばお参りはそう繁々とは出来でも。
お役にはいかに立っておらんようであっても、必ずお役に立たせて頂ける時期がある。いわゆる人を助けてやれと仰る、助けてやれるおかげも受けられるに違いないけれど、ここには私共が落とし穴がある事をひとつ知っておかねばならぬ。人間の我情我欲がどういう形で表れてくるか分からん。金が出来たらと思いよったけれども、ちゃんとその事が薄うなったり、消えて言ったりする様な事ではならない。自分というものがいよいよ脱皮に脱皮を重ねていっておる自分。
そこから有り難いものを感じとれる自分。そういうおかげ。ですからそれはどちらが本当だとは思えない。けれども人間の弱さ弱点というものを思う時です、やはり私はかつがつですねその両方を身に付けていけれるような、両方というのは例えばこれは私の事を言うとね、食べるに事欠く時代であっても、神様の御用一途にいわゆる私、真を先行したりね先にそれを進めていった訳です。
神、公、私ともう一にも神様二にも神様、三にも神様という生き方で行ったということ。しかも生き方と言う事の同時にです、御用すりゃあ助かるというだけの一念ではなくて、おかげで私はね自分自身が脱皮していっていきよる楽しみも、喜びも分からせて頂きながら、今日に至って来ておるということ。ですからまぁここではいうなら、私の生き方でいかれたが一番実は堅実じゃなかろうかと思いますね。
どうぞ。